父の想い出

自分用なんでだらだら雑文です。。
父親の思い出。。

父はこの冬を越せるだろうか? そんな心配が
当たってしまった。

僕が新松戸の実家で生まれたときには、すでに父はロッキン・オンを離れて久しく、外資系の金融コンサルタント会社、アンダーセンで働いていた。しかし僕が2歳になるころにはもうサラリーマンを辞めたようだ。なので父が朝スーツを着て出勤するという、そんな記憶はまったくない。小さい頃の記憶の中の父は、ギターを弾いているか、音楽がずっと流れている部屋にいるか、一眼レフを抱えて僕を連れ回し、僕にうんざりされているか、あとは、まあいろいろ…

という感じだが、父の仕事については父のFacebookの職歴欄を調べて書いている。

僕が小2ぐらいのときに、父と離れて暮らすことになり、まあたまに会ってはいたんだけども、仕事も何をしているのかよく分からなかった。誰にきいても確かなことは言わなかったので、僕は父の音楽関係のことについてはネットでググって知ったぐらいだ。

最近になって、父は死期が近いことを悟っていたのか、以前は全然喋らなかった過去の思い出話もぼちぼちするようになっていた。「採用面接を担当していたときの変なエピソード」とか、喋っていたので、ああ、そんな職歴もあったか、と最近認識した。。

小学3年生の終わりごろ、僕は母と姉、妹と茨城に移り住んだ。それからは、夏休みや正月に千葉に帰ったときぐらいしか会わなかった。昔はちょくちょく那須とか松島とか、家族で近めのとこに旅行に行ったかなぁー。
中学のころ、母が癌になり、入院してしまったので、その頃は父が家に来て、一応頑張って親代わりになろうとしていた。

…僕の父は、ここに書けないほどやばい。父親としては非常にやばい人間だったかもしれない。  

暴力的で家事能力なし、金銭感覚なしで異様な浪費家、短気で口がキツく、理屈で人を追い詰め、アホと思った奴には容赦ない攻撃…という問題児であった。
しかし博識で、質問にはなんでもちゃんと答え、ユーモアが好きで、芸術や人にたいする愛情が異常に深く、繊細で同情心に厚い、という二面性があった。
芸術がわからない奴と偉そうな奴が嫌いだった。

あるときは自分では面倒も見きれないのに、家に現れた二頭の捨て猫に餌をやり続け、飼い始めた。(シャープとフラットと僕が名付けたが、シャープは事故ですぐ死んでしまった。父以外の家族が全員、父と離れて暮らすようになってからは、父は新松戸の家でフラットとずっと一緒に1人と1匹暮らしていた。)

父はまた、人や物事をなるべく正確に、深く理解しようとする人だった。
たしかに、頭の良い人ではあったが、それ故に周りの人間の多くが適当なバカに見えるらしく、それでハタからたとえどう見えても、本人としては実際はかなり人間関係で神経をすり減らしていたらしい。多分それのせいかわからないが昔、若い頃は家庭では酷い癇癪を起こしていた。それは本人にも歯止めがきかず、自分でも自分の性分に大変苦しんでいたようだ。
まあ母や、父とは血の繋がっていない姉を筆頭に家族は大変という域を通り越して壮絶な目にあっていたのだがそれには絶対に触れないことにする!
僕もよく昔殴られてました笑
父の金使いが原因で電気も水道も止められました笑

しかし音楽や映画はもちろんのこと、絵本や図鑑やたくさんの文学作品、それに遊具で溢れかえった家に生まれたことには、僕は感謝している。笑
僕の(敏感すぎる)感受性は先天的なものではあるけど、小さい頃にたくさん読んだ物語や音楽によって育まれたと思われる。

さて、僕は気楽に生きたかったのに、どうも人間が父に似てしまっていて、人生がハードモードなんだが。僕は父より頭が悪い分だけ人当たりのマイルドさがプラスされているような人間だと自分では思うが、そっくりなところもたくさん。だから本当に自分のいちばんの理解者ではあった。
父はなんだかんだ私のことは特に気にして可愛がっていた。僕が欲しいといったCDは廃盤になっていても父に言えば出てきた。(オークションにもどこにもうってなかったのになぁ…)
自分が中学のとき大病をしたときも、社会人になってからも、どうにか助けようとしていた。だから父が骨折するような酷い喧嘩をしても、なんど殺してやる、と言っても、やはり恨みきれないようなところがあった。

ところで父、父と書きまくっているが、実際は私は父のことを「お父さん」と呼んだことが人生で一度もない。私が喋れるようになったときに、父に「じゃあじゃん」というあだ名をつけ、以来、家族全員、父のことは「じゃーじゃん」と呼んでいた。まあ祖母だけは、息子なので、ゆきひこ、と普通に呼ぶことが多かったかな。父は完全に、普通の家庭でいう「父」「お父さん」なんてものじゃなかったし、口が裂けてもそんな恥ずかしくて気まずい呼び方は出来なかった。父のような強烈で独特の人格を持った人間には、私は世間で似ているなと思う人すらみたことがない。

まあそれはよいとして、父は生まれつき心臓が奇形だったようで(心臓の弱さはばっちり僕と妹に遺伝してしまったわけだが)、そのくせに若い頃はかなりのヘビースモーカー。僕らと離れて一人で暮らすようになってからますますストレスいっぱいで不摂生な生活をしていたせいもあり、16年前に駅のホームで突然、心筋梗塞で倒れた。都内の病院をたらい回しにされ、心肺停止してから長い時間が流れた。母は、もう助からないと医者から連絡を受けた。しかし、心臓機能の大部分を失いながらも奇跡的に一命をとりとめ、それから重度の身体障害者として十何種類の薬を毎日3回飲みながら、心臓の数カ所に金具をいれながら、宣告された余命を大きく裏切って生き延びていた。

そういうわけで、もともと生活力は皆無な父を新松戸の実家に一人にしておくと可哀想なのでまた茨城で月の半分ぐらい一緒に暮らすようなかたちになった。
新松戸の実家近くで一人暮らしていた祖母も一緒に住むようになった。
妹が家を出てからは、祖母と父母、私、そして私が4歳のときから飼っている長生きな愛犬で暮らしていた。そうそう上手くいくわけがないことは分かっていても良かったはずなのだが、やっぱり"お子様"の僕にとっては、皆でまた暮らせるのは嬉しかった。

まあそれからの生活は大部分を割愛するとして、父が茨城の家にいないときは音楽関係の用事で都内に出かけているか、新松戸の家に戻っているか? 
だが、調子の悪いときは茨城に引きこもって、夜中はずっと苦しそうに呻いていた。というか、叫んでいた。勿論僕は内心気が気でなかったし、両親のことを考えると家を出るのも心配だった。

そんな身体でも、自分の母親より1日でも長く生きる、というのが父の目標だった。父と祖母も、喧嘩ばかりの親子だったのだが、父はそれだけは親孝行として心に決めていた。

父の身の上話をすると、父には姉が一人いたのだが、10歳の時に白血病で亡くなっている。
非常に気がきく利発な姉だったらしい。亡くなる前は哲学的な作文を書いて過ごしていたという。父の母である祖母はこの姉を殊の外可愛がっていて、闘病中ずっとつきっきりだった。そういう事情もあり、父はわりとほったらかしにされていたようだ。
その姉のお葬式では、「お母さんをしっかり慰めてあげてね」と言う人ばかりで、「(僕も姉が死んでこんなに悲しいのに)なんで誰も僕の悲しみは慰めてくれないんだ」と父は思ったそうだ。
そして姉の死後、小学校の卒業式、開成中学の受験のときにも、父は1人だった。「僕の卒業式に来てくれるよね?」と祖母に言ったものの、父の姉が卒業できなかったのを思うとつらいからと、出席してもらえなかった。
あるとき、珍しく祖母が父にとても優しくなったことがあったそうで、そのとき父は、「あ、僕ももしかして重病になってもうすぐ死ぬのかな?」と思ったらしい。
(それからのことも一応書いておくと、父は開成に通い、12歳でバンドでギターを弾き始めていたが、高校課程に進む際、長く伸ばしていた髪を切って普通の男子のように坊主にするか、退学するかと言われ、退学を選んだ。その後、16歳頃からロッキン・オンに寄稿するようになり、17歳のときには、薔薇卍のリーダーとしてロックコンテストに出場したらしい。ちなみに優勝こそしたものの、その後「あの時の音源ないのが救い」というコメントをしている。)
それから月日がながれ、いろいろあって音楽繋がりで出会っていた母と結婚した後、祖父は私が4歳ぐらいのときに病気で他界した。67歳だった。
父はせめて自分だけは母親より先に死なないようにしよう、と思ったのだ。

そんな祖母が、2年前の2016年5月、交通事故で突然他界してしまった。反射材を着けて手を挙げて道を渡るような怖がりで用心深いおばあちゃんだったのに、だ。老人とは思えないほど見た目に気をつかう、しゃきしゃきした人だった。
その頃私は体調を崩し、ほぼ家にいたのに、その日に限って都内に出かけていたため、しばらくは息があったみたいだけど死に際には間に合わなかった。1月の末に愛犬がなくなってからほどなくしてのことだった。

どうやら、信号無視の車に轢かれたようなのだが、相手はそれを認めないし、証言も二転三転して、父はその件でも弁護士と一緒になんだかんだ2年間ゴタゴタすることとなった。途中でその弁護士が事務所に書き置きを残して失踪してしまい大変なことにもなったが、なんとか一からやり直して一応決着がついたのが、つい最近だった。

さて。音楽ライターや翻訳の仕事、商業的ではないが最高質な音楽・芸術を届けたいという願いで始めたイベントオーガナイザー、ギターリスト、プロデューサー、マネージャーと、…父はとにかく「伝えたい人」だったんだなと振り返る。

父は手先が超不器用だったんで、楽器のプレイヤーとしては危うかったと思うんだが、目や耳はさすがに肥えていて、芸術とくに音楽においては、職業柄当たり前だがエグい知識と地獄のような耳を持っていた。亡くなる直前まで純粋に音楽関係の"仕事"をし、知識も熱心に増やし続けた。

母曰く父は、文章が書ける人が好きだったようだ。自分の脚本の才能もかってくれた。もっとも私としては才能なんかはなく本当にしんどい思いをして熱出しながら書いているのだけれど。まあ、それは三島由紀夫みたいな人じゃない限りは、たいていどの脚本家も小説家も漫画家も、みんなそうなんだけどね。細部までこだわり、本当になるだけ正確な言葉を選びたいと思う、良いものを作りたいと思うから、大変苦労する。作品づくりに対して誠実な人間は、いわば「適当」には出来ないわけで、いつも自分の能力の限界ギリギリでやってるから辛いんだけどもそれはやめられない。父もそうでしたね。

話が逸れたけどやっぱり、演劇でたとえお客からボロクソに言われても、 父親が評価してくれれば本当に嬉しかったものだ。芸術面では僕は父を信頼していたからね!
高校演劇時代からずっと父は僕の物書きを応援してくれた。

一方で音楽についてはきつく言われることが多かった。小さい頃からピアノ弾いてても、「そんな(気持ちのこもっていない)弾き方をするんだったら弾かないほうがマシ」とかね。笑
でも言われたことは今でも意識する。
まあ、ピアノについては表現力とか、タッチとか、亡くなる直前もピンポイントでトレモロの巧さとか笑、褒めてくれることも多かったんだけど、歌については、これがまた「聴けるレベルじゃない」「全然分かってない」「カラオケじゃねえんだから」「私、上手いでしょ?みたいな歌なんか聴きたくない」「リズムが」「音程がさがりきっていない」等々ダメ出しオンパレードになっていた。まあそうなるわな。自分だってそれは本当は自覚はあるが、もうこの歳になって治らんと。だからもうなんも考えてなくても何も言われないそこら辺の能天気な子みたいに楽になりたい!もう好き勝手に歌わせてくれ!糞みたいな音楽や歌認めてくれ!みたいな気持ちというのか、わざと否定していた。しかし結局今でも自分は心の底で申し訳なく思っている。だから僕には実際には趣味で適当に音楽や芸術をやる、という概念がない。適当にやった時点で楽しくもないし、芸術でないならやりたくもないからだ。
もはや板挟みのノイローゼである。

して、昨日のことのように思い出せるのだが、二年前、やはり歌のことで父と大喧嘩したことがあった。しかし、父は後になって珍しく謝ってきたのだ。それもまさかの泣きながら。あの粗暴な父親が泣いているのを見たのは、人生で後にも先にもその一回だけだったので、私は多大なショックを受けた。

父はここ数年、具合が本当に悪くなったのか、以前のように派手な喧嘩はしなくなり、諦めモードも多くなっていた。静かになったな…と僕は思っていた。
そして今年になると「歌上手くなったな」と褒められたり、どうも様子が変わっていった。

今年の8月に父の前で歌った最初で最後のライブは父企画のライブで、急遽、父が歌うか?と言ってきたので、歌うことになった。(母が「娘も歌をやりたいといっているんだから、ちょっとは娘のことも気にかけてあげてよ」と言ったから。)最後にセイリングを歌った。父が言っていたように人が他界するときの歌だ。だから僕は、ライブの数日前に亡くなった、父母の旧友であってギターを弾いていた丹波さんの学生時代からの大ファンでもあった女の人を思って歌ったし本当に人が死ぬときの悲しい気持ちで歌っていた。
リハーサルの帰りにまで、関係ないことで喧嘩をし、もう歌わないー!きー!となって車を飛び出したが、本番では父の一番のお気に入りのミュージシャンの人たちと一緒に僕が歌っているのを聴いて、父はたいへん嬉しそうでした。
事情で宣伝も直前に慌ててしはじめたライブだけど、父と僕にとっては二度とはない貴重な瞬間だったようだ。


そして、なくなる2週間前、最期に会ったときふと「萌、公務員はやめていっか〜お前はアーティスト(になるん)だな」というような言葉をいわれた。
最期あったときは、長年僕らを苦しめたトラブルメーカーの父ではなく、冗談まじりに政治や音楽の話をする、いつもの父だった。

本当に突然だった。寒い朝遅く起きたら、訃報が入っていた。どうしても現実を見たくなかったので、お家にも帰りたくなかった。
お葬式はことさら憂鬱だった。
やはり辛気臭い葬式はトラウマ以外のなにものでもない。

無くなる直前までツイッターを更新していたしFacebookも更新していた。
いつもとかわらない内容で、むしろ最期の更新になるとは、全く予期していないようなチョイス!保留にした話も、約束していたこともあったが、もう二度と会えなくなってしまった。

遺品整理をしていたら、父が執筆していた頃のロッキン・オンが一冊出てきた。1979年のだ。(後で奥の方から保管されていたバックナンバーが出てきたけど、この号だけは分かりやすい場所にポロっとあった。)なんでこの号だけここにあるのかなぁ?と思ってページをめくっていたら、父の記事。ロバート・フリップへのインタビューだった。
亡くなる一週間ほど前に、父がツイッターで、とあるミュージシャンについて、誰かは明示せず呟いていた。それがロバート・フリップのことではないか?と言われていたが、
もしかしたら、正解ということなのかも?


まあそんなこんなで、父の名残にはなんでもすがりはじめた。
父がギターを弾いている、新●月の「光るさざなみ」という曲。この曲のギターの旋律だけは、マネージャーだった父が考えたという。20年前はあんなに新松戸の家に積み重なっていたはずのCDが今はどこへやらで、仕方なくタワレコオンラインの視聴で再生してみた。
ああー小さい頃、父が家でずっと弾いていたな。あれは、レコーディングに向けて練習していたわけだな〜懐かしいなぁ、と思って、またかなしくなる。

猫のことやお見合い相手を紹介すると言っていたことやジェーン・シベリーのことや庭のことや最期に母と三人で出かけたことやとても全ては書ききれなかった。でもめっちゃ書いた。今は全部かなしい!!
とにかく僕は母が大切。おわり。
思いつくままに書いたので時系列とか酷い文になった。が、自分用なんで推敲なんかしません〜

新松戸の家の写真、少ないけど数枚思い出に貼っとこう。2011年にIT企業の社長に買い取られ、今は白塗りの事務所みたいになってる!まったく当時の面影はないんですよ。哀しみを感じるね!
僕が午年だから。馬の絵買ったらしい。
なぜかピアノの上に酒が並べられるようになった…
父の部屋最終形態。汚い。
当時、新●月のマネージャーだった父がプロデュースしたアルバム。8番の「光るさざなみ」は、父自身がギターを弾いている。
前述のとおり見つからないので、Amazon貼っとこう。もしこれを読んだマニアックな人がいたらこれぜひ。笑


ロッキン・オンに掲載されていた不確かなトリビア。
果てしない遺品整理。3分の2ぐらい母がもの捨てたけど、処分にも膨大な費用を要する。
そして母の家が段ボールだらけです。
母が大変です!!ばかおやじ。
氷山の一角というものだ…
足の踏み場もない段ボールに泣かされる母!📦📦📦
古い。古すぎる。
F1も大好きで生涯見続けたという…
父のFacebookより。
前述した17歳の父。写真右奥のギター。
痩せている。
猫が父にちょっと懐き、「猫の窓開け係おじさん」になって喜んでFacebookに書く父。

アーサーミラーになりたい

忘備録です。ははは。

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